はるの文章置き場

雑多オタクがたまに論文を置く。

蜂須賀虎徹について

歴史が分からん出戻りの審神者が一生懸命考えました

※手紙、破壊台詞等反転なしで載せてます。

 

 

 

史実の蜂須賀虎徹について

無いとは言わないが、ゲーム上では「虎徹の真作で史実での目立った活躍がない蜂須賀虎徹」と「虎徹の贋作で史実の活躍により有名になった長曽祢虎徹」の対比が意識されていると思うので史実での刀としての目立った活躍がないことが軸になっている男士だと思う。

 

極める前の蜂須賀虎徹について

「贋作の多い虎徹の真作であること」をメインに持っている。極めた後ではあるが、「虎徹の真作と呼ばれているが、その言霊にこの身は縛られすぎているようだね。」(極刀帳台詞より)と言っている。極める前はそこに縛られすぎている事に気付いてすらおらず、他の事に手が回らなかったように見える。おそらく真作の定義を「長曽弥虎徹興里作の虎徹」に定めていて、その視点に縛られているからではないか。
長曽祢虎徹の実力は認めているが極前にそれが分かるのは以下のもののみ。
ゲーム内ではないが公式Twitterの紹介文「しかし本心では兄の実力や無骨さに惹かれている一面も。」
浦島虎徹極台詞「蜂須賀兄ちゃん、あれで長曽祢兄ちゃんのことは評価してるんだよね。」

 

修行について

手紙

・一通目
修行の許可を出してくれてありがとう。
様々な刀が新たな力を得ようとしている今、
虎徹である俺もそれができねば示しが付かないからね。
必ずや、これぞ虎徹、と皆が惚れ惚れするような結果を携えて帰ろう。
期待して待っていてくれると嬉しいな。
・二通目
俺の修行先は阿波、蜂須賀家……とするのが正道なのだろうね。
ただ、俺は今回それを選ばなかった。
もちろん、俺を長く所有してきた蜂須賀家には思い入れがある。
だが、俺は蜂須賀の刀ではなく、真作虎徹としての力を求めた。
だからこそ壁にぶつかっているとも言えるわけだが――
いや、なんでもない。修行は順調だ。心配はいらない。
・三通目
真作にふさわしい力を求めるべく、修行をしている。
作り手の顔を見てみようと思ったが、やめた。
俺の、俺の中の真作というものはそうじゃない。
力、そして、できれば優しさがあればいいと思っている。
優しさは、手紙なら簡単に書けるのに、実際やると難しい。
これは、日々の生活から身につけなければいけないのだろう。
それには主が必要だ。少なくとも俺には。

修行は終わり。これから本丸に帰るとしよう。

 

修行で何をして何を考えたのか

 

「蜂須賀家の刀≒史実」の方向性ではなく、自分がこだわっている「真作であること」と向き合う方向性。
真贋関係と直結する自分が生まれた場所に由来でも、自分が史実でいる場所でもない場所に行くことでそのあたりのしがらみをいったん置いてものを考えることができたってことじゃないかと思う。どこに行ったかが問題なのではなくて自分にゆかりのある場所”ではない所”ということが大切なのだと思った。本丸だと自分の素性を知っている主や男士がいるからそれも難しそう。
刀工がどうとかそういうのを置いて蜂須賀にとって真作とは何かと向き合った旅だったんだなと思う。
おそらく「俺の、俺の中の真作というものはそうじゃない。力、そして、できれば優しさがあればいいと思っている。」の力は長曽祢虎徹、優しさは浦島虎徹が持っているものだと思う。

長曽祢虎徹の力

刀としての優劣ではなく、実戦で戦った時の力とか…かな…わからない……。

浦島虎徹の優しさ

「蜂須賀兄ちゃんは長曽祢兄ちゃんのこと嫌ってるけど、正直贋作がどうとかどうでもいいよね!」

「蜂須賀兄ちゃん、あれで長曽祢兄ちゃんのことは評価してるんだよね。」
浦島が贋作でも兄弟として見ている事を優しさと言うのかは微妙な所だけど「自分が贋作であることを分かっているけれど元の主関連で自分が虎徹であることは譲れない長曽祢虎徹」と「虎徹を名乗る贋作を許せない蜂須賀虎徹」の両方と仲良くしたいけど2人に仲良くしてほしいからって考え方を変えさすとかはしていないのでそれを私は優しさだなと思う。自分の希望を置いておいて相手のことを考えられるということ。優しさは日々の生活の中で身につけるものであり、修行で完全に身についたものではないから蜂須賀にとって修行は終わったものではなくこれからの日々への目標を見つけたものという側面もあると思う。そのへんの回想くれませんか?

 

極になって変わったこと

贋作か、真作かに囚われすぎていたけど修行によって「俺の中の真作」は何かを考えたことによって刀としてどうか?ではなく男士としてどうか?という視点にも気を配れるようになったように見える。

長曽祢虎徹について

極破壊台詞「贋作とか……真作とか……どうでもよかったんだ……本当は……俺は……」
俺は、何!?!?!?!?!?!?!?!?
本丸台詞「どうして俺は……あの贋作のことを」
あの贋作のことを何!?!?!?!?!?!?!?!?!?
多分手紙に書いてた「俺の中の真作というもの」あたりと公式Twitterの「実力を評価している」あたりの話だとは思うけどエッ……そんなに言えないんだ……?手紙に書けるのに……極前後での長曽祢虎徹への対応の違い、手合わせ台詞でしかわからない 三点リーダ増えてることと舌打ちを我慢できるようになったっぽいことしか分からないんですが、修行に行って考えて自分の中の真作が何か(や、おそらく長曽祢虎徹の実力を評価していること)を自覚した後にもこういう態度しか取れないというのはもうトラウマとかそういうレベルの……あれなんだな……。本人の意志と刀帳台詞で言ってた言霊がうまく噛み合ってないのが分かる。
花火台詞「弟も喜んでいるよ 贋作も ね」や花見台詞「花は贋作すら美しく映えさせる、か ……っなんでもない」からは本人の前でなかったら割と素直に言える場合もあるのかなと思わせる。
一口団子は極前後で「ああ、これはいいね。弟も喜びそうだ」から「ありがとう、弟の分はあるかな?贋作の分は不要だけど」なのは……何?わざわざ付け足したのは……?
「優しさは、手紙なら簡単に書けるのに、実際やると難しい。
これは、日々の生活から身につけなければいけないのだろう。
それには主が必要だ。少なくとも俺には。」
だそうなので、日々修行ですね。ゆっくり歩いていきましょう。

 

※追記

解釈がどうとかではなくて好みの問題なんだけど、私は他人や兄弟と別に仲良くしなくてもいいと思ってるし、極になって長曽祢は自分のスタイルを同じ方向でさらに強く持って、蜂須賀が折れたみたいに見えたので正直好みの方向性ではない。破壊セリフを見ると「蜂須賀は元々真贋どうでもよくて言霊に縛られていた」を強く感じる。そういう造詣にするキャラを極が来るまでの数年、ほぼ真贋関係に厳しい台詞だけにして回想もなくしていたのはなんか……和解(?)を求めてた人に刺さりづらくて求めてなかった人に刺さるけど極破壊台詞という大事で、特に蜂須賀にとっては唯一の本音のような立ち位置のものに和解系を持ってきたのあんまり上手くないな……という印象。

私は和解を求めてなかったので一連の虎徹関連の物語を受け入れづらく、主義じゃなさすぎて蜂須賀極破壊台詞を咀嚼するのに数か月かかり、結局彼を推しとは呼べず、未練と執着と極前への精神の癒着が残ったオタクになった。好みの問題だから批判とかじゃないです。not for meだった理由が分かったので書き残しておこうかなという……

 

出陣時の台詞では極前だと「贋作とは違う」系が多かったけど極だと「本物の力」という言葉が増えている。多分「『本物=虎徹の真作』の力」ではなく「『本物の力』」だと思う。「刀としてどうか?」から「男士として戦った時の自分の力はどうか?」という方面へ変わった印象。

 

他の男士に対して

刀として見るより男士として見る方向性が増えたように見える。
手合わせ終了時台詞は割と顕著だと思っており、「ありがとう。より、鋭くなれた気がするよ」から「ありがとう。君にとって、いい時間だったなら嬉しいな」である。極前は「鋭さ=刀としてどうか」を気にかけていたが極では手合わせ相手のことを考えられている。
あとは鍛刀台詞の「新たな刀が打ち上がったようだ」→「新しい仲間がやってきたようだよ」とかも。

真贋


極める前は自分のことを虎徹の真作として扱っていたけど極めてからは自分を自分として扱っている台詞が多い。
お守り台詞が「ありがとう。本物を大事にしてくれるんだね」から「ありがとう。俺を大事にしてくれるんだね」になるの最高です。

贋作についても本丸台詞が「贋作が横行するのは俺たちへの評価が高いってことの裏返しだけどね。……でも、限度があるよ」なのちょっと態度がやわい気がしませんか?私はします

 


本丸放置「どうした主? やるべき事は無いのか?」→「することがないなら、弟の相手でもしてくるけれど」
遠征帰還「ただいま。うまくいったよ」→「ただいま!弟は元気にしてるかな」
審神者長期留守後御迎「お帰り。随分かかったね……まあ、戻ってきてくれたのだから、良いのだけれど」→「お帰り。気分転換は終わったのかな?ならば、これからは俺たちの相手をお願いするよ」

遠慮がなくなったと言うか、ある程度雑になったと言うか。主の前で色々繕わなくていいって思ってくれるようになったんだったら嬉しいな~~と思う。

 

天保江戸のことなんもわからないので次は歴史を勉強したいです…